「地雷を踏んだらサヨウナラ」カンボジアにある一ノ瀬泰造の墓に行った

今でこそカンボジアはアンコール遺跡群観光の外国人をずんずん受け入れられる程に政情が安定しているが、僅か40年近く前にポルポト率いるクメール・ルージュによる支配があり、観光客がとても入り込めるような状況ではなかった。その時代に単身カンボジアに乗り込んでクメール・ルージュの支配下にあったアンコールワットをその目で見て写真に収めるべく一番乗りしようとやってきた日本人が戦争カメラマンの一ノ瀬泰造だった。彼がカンボジアで世話になっていた友人に宛てた「地雷を踏んだらサヨウナラ」(One Step on a Mine, It’s All Over)と書かれた手紙の存在、後にそのタイトルでドキュメンタリー本が出版され、さらに浅野忠信主演で映画にもなったりもした。

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一ノ瀬泰造は1973年11月、自力でアンコール遺跡群に潜入したもののクメール・ルージュに捉えられ「処刑」されてしまっていた事が判明した。実際に命を賭けてアンコール・ワットを見る事が出来たのか、どのように死んでいったのかは内戦の混乱の最中という事もあって未だに明らかにされていない。1982年に彼の遺体が発見されたシェムリアップ郊外のプラダック村には、現地人によって「一ノ瀬泰造の墓」が築かれていると聞いた。ここも日本人がよく来る観光コースであるとも聞いていたし、我々も海外の日本人墓地というものには非常に興味があるので、当然ながら立ち寄る事にしたのだ。

一ノ瀬泰造の墓の存在は、日本人観光客慣れしているトゥクトゥクドライバー達も大抵知っているだろう。「タイゾー」と一言言えば、ああタイゾーね、と通じる。映画化までされた「地雷を踏んだらサヨウナラ」を観た日本人が泰造の墓を訪れるようになり、カンボジアの地元民も「これは金になる」という事で個人の墓を観光名所にしてしまったのだ。もっともこの墓自体も実際に一ノ瀬泰造の遺骨が埋まっているという訳ではないらしい。遺族は本人の遺骨を日本に持ち帰っているし、カンボジア人が現地で泰造の墓を建てている事も遺族は知らなかったとの話もあるのだ。まあ細かい事はいい。確かなのは「一ノ瀬泰造の墓」がプラダック村の外れに作られていて、それを我々は一目見たいというだけの事だ。

トゥクトゥクに運ばれてプラダック村の北東の外れに来ると「ようこそ泰造のお墓へ」とミミズの這ったような下手な文字の日本語で書かれた看板が見える。看板がある角を曲がって、現地人の集落が連なる脇道を進んでいく。

トゥクトゥクは途中から進めなくなるので、墓の500メートル程手前で降りる事になる。そこに現れたのは地元の子供達の姿だった。

子供達は我々日本人をさも珍しそうに興味津々で近づいてくる。わらわら集まって最終的に10人近くになった。日本人がやってきただけでちょっとした町内のお祭り騒ぎのようである。子供というのはどの国の子供でも可愛いものだが、どの子もボロボロに汚れた服を着ている。貧しいから、というよりも、遊んでいるから汚れるのだろう。

トゥクトゥクを降りて泰造の墓へ向かう我々の周囲に付いて回る。しきりに自分達が覚えている数少ない英語で「ホワッチャネーム?」などと話しかけて来ようとする。彼らの歳を聞くと5歳から10歳くらいの子供ばかりだ。義務教育はきちんと受けているのだろうか。それはいいが子供達の二言目が「ワンダラー」(One Dollar)なのである。

カンボジアの子供達は観光客に対して使う言葉として「1ドルくれ」を親に真っ先に教えられているのかも知れない。同情心でほいほい1ドルくらい恵んでやる観光客が多いからか知らんが、それが当然になってしまっているのだとすると、それは彼らの人生にとってはどうなのだろう。カンボジアではクメール・ルージュの時代に知識階級が根こそぎ粛清された結果、自力での復興が難しい。それから40年近くが経ち、国際社会の支援を受けながら何とかやっている所だ。今この国の人々に自立心が育っていればいいのだが、逆に「恵んでもらって当然」になっては居ないのか。そんな事をぶつぶつ脳内で思いを巡らせながら500メートルを歩くと、川を挟んだ向こうに小さな小屋と、泰造の墓と思しきモニュメントが見えた。

泰造の墓へと続く川に跨ぐ橋のたもとにはボロい立て札があり「Supported by H.I.S」の文字が。こんな所にまでエイチ・アイ・エスかよ…板切れが渡してあるだけの心細い橋を子供達と一緒に渡っていく。

橋を渡った先には一軒のあずまやと、その奥に墓と思しきモニュメントが置かれてある。墓には「一ノ瀬泰造 2001年4月8日建」と日本語で書かれており、手前には線香とドネーションボックスが置かれている。ひとまずここで線香を挙げてお金を入れてくれ、という事らしい。

「1973年11月 泰造ここに眠る コォントゥン」と読める日本語の文字。現地人が見様見真似で書いたにしてはしっかり字面が整っている。でも本人の墓は実家のある佐賀県武雄市某所の寺にしっかり建てられている。あの映画を見ているか居ないかでも現地に辿り着いた印象が変わるのかも知れないが、我々が映画を見たのは日本の帰ってからの事だ。

墓の前に賽銭箱のようにもっともらしく置かれたドネーションボックスの中に1ドル札を入れて手を合わせた。この1ドルは墓の管理費用になる、という建前だが、やはり原住民の腹の足しになっているのだろう。1ドルなんて日本人からすると端金だが、カンボジアでは低所得者層の1日分の所得に値するという。

墓の前の小屋には、生前の一ノ瀬泰造の写真と、彼がアンコール・ワットへ出向く直前に撮影した、内戦で砲火が飛び交う中で行われたというカンボジアの結婚式の写真などが展示されていた。

一ノ瀬泰造が現地で世話になったというチェット・セン・クロイ氏とその妻となったネアン・ラット氏の結婚披露宴の様子。チェット氏は高校教師で、泰造は彼をロックルー(先生)と呼んで慕っていた。泰造が行方不明になった後の1975年、彼はポル・ポト軍に捕まり処刑されてしまった。原始的な農村社会による共産主義を目指す気違いじみた思想を持っていたクメール・ルージュにとって教師など知的階級は粛清の対象だった。なお妻は存命で、シェムリアップでクメール語の教師をしているそうだ。

ついでに一ノ瀬泰造本人のご近影もあり。それにしても、一ノ瀬泰造が逝ったのは26歳の時だったのか…若いな..実際我々がカンボジアに来るまでは浅野忠信主演の例の映画は見ていなかったのだが、日本に帰って見てみると浅野忠信がまるで一ノ瀬泰造の生き写しのように、雰囲気から何から「似ている」のには鳥肌が立ってしまった。なにせ浅野忠信の誕生日が、一ノ瀬泰造が死亡したとされる1973年11月29日の僅か2日前、しかも映画の撮影時、当時の一ノ瀬泰造と同じ26歳だったというのは運命的とも呼べる偶然なんだろうか。

何日もとことん着回したと思しきボロボロの洋服を身に纏った子供はやはり子供でしかないのだが、彼らが成人する頃にはもう少し豊かな国になっているのだろうか。帰りの500メートルもやはり子供に囲まれながらとぼとぼ歩く事になる。「ワンダラー」「ワンダラー」…幼い彼らの言葉が脳裏にこびりついた。

帰りのトゥクトゥクに乗ってからも子供達は無邪気に我々を追いかけてきた。後から見たあの映画の情景があまりにこの風景と似すぎていて、この写真を見る度に現地への思い入れが強くなる。長い人生で何かの節で、もしかしたらまた来る事もあるかも知れない。

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DEEP案内シリーズ管理人。2009年から海外各地を訪問し始め、現在の訪問国は25ヶ国。2017年6月15日に単行本「『東京DEEP案内』が選ぶ 首都圏住みたくない街」(駒草出版)を全国発売。首都圏を中心に飛ぶような売り上げを記録し増刷決定。